ベルリン三部作
ブライアン・イーノとのコラボレーションで1977年~1979年にかけて制作され
後に「ベルリン三部作」と呼ばれることになるアルバム『Low』

そして『Heroes』 、 『Lodger』 は
ロンドンパンク/ニュー・ウェイヴ全盛期のなかで
プロトパンク、オールド・ウェイヴを前面に出した作品になっています!
ブライアン・イーノとのコラボレーションで1977年~1979年にかけて制作され
後に「ベルリン三部作」と呼ばれることになるアルバム『Low』

そして『Heroes』 、 『Lodger』 は
ロンドンパンク/ニュー・ウェイヴ全盛期のなかで
プロトパンク、オールド・ウェイヴを前面に出した作品になっています!
ボウイは再び架空のキャラクター「Thin White Duke」(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じました。
ドイツでのライブは、ナチズムを強く意識したステージ構成になったんですよね~。
いや~、本当に凄かったです。
インタビューではヒトラー擁護とも取られかねない際どい発言をして、ファンの前ではジークハイルをやったやらないなどの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、「ジギー・スターダスト」以上の危険人物とみなされてしまったんですよね・・・。
メディアのバッシングは、きついですよ~・・・。
ツアーの終了後には、薬物からの更正という目的も兼ねて、ベルリンにお引越しし、ひそやかに音楽作りを始めました。
少し離れてみるのもいいですね^^
1976年、自らの主演映画の中身に影響を受けて、また長年の薬物使用、中毒で精神面での疲れが絶頂に達していたボウイは、自分のアイデンティティを見直す仕事を余儀なくされました。
薬物は、精神を破壊しますので・・・しないでくださいね。
結果それは前回の作品と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変化し、その概念で作られたアルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として成果が得られました。
自分と向き合う事で生まれた音楽。聴いてみてください^^
1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を公表。
全米1位を獲得したジョン・レノンと共に作ったシングル「フェイム Fame」を含むこのアルバムは、フィラデルフィア・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」という概念で作られたそうです。
このアルバムの直後、初の主演を演じます。
映画『地球に落ちてきた男『The Man Who Fell to Earth』の撮影が始まる。
この映画も是非見てくださいな^^
1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたましたが・・・・相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断する事に・・。
残念ですね・・・。
その中断期間中にフィラデルフィア・ソウルに傾倒するようになって、6週間の中断を経て再開された北米ツアーは全く別のものになりました。
まあ、しょうがないですよね。
1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンド・ドッグス Diamond Dogs』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「1984年という言葉を大々的に使用してはならない、1984年の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。
1972年、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト Ziggy Stardust」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ Spiders From Mars」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン Aladdin Sane』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。
1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男 The Man Who Sold The World』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が多分に含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー Hunky Dory』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。この年、アンジェラ・バーネットと結婚し、息子(映画監督のダンカン・ジョーンズ)を儲ける。後に離婚している。
1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ David Bowie』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ The Image』(翌年公開)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。
1968年1月から3月までリンゼイ・ケンプの劇団の元で過ごし、パントマイムの腕を磨いた。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ Space Oddity』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル『スペイス・オディティ』をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。
1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンに生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ジョーンズ(David Robert Jones)。子供の頃、喧嘩が元で左眼の視力をほぼ失っている(左眼の瞳孔が開いた状態になり、以来、両目の色がそれぞれ異なって見えるようになる)。ユダヤ系である。 1964年6月5日に「デイヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ Davie Jones and the King Bees」名義でシングル『リザ・ジェーン』を発表し、音楽活動を開始する。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ The Manish Boys」「デイヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード Davy Jones and the Lower Third」などと名を変え、1966年4月のシングル『Do Anything You Say』から使い始めた「デヴィッド・ボウイ David Bowie」でやっと芸名が定着することになる。
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